ともちゃんの嘔吐と私の否認
水曜夕方はもともと"まだら子"ともちゃんを病院に連れて行くつもりでいた。人間チャシマンが出張で不在なので、点滴するのに手間取るのが分かっていたから。ともちゃんは全力で逃げようとするから、トラ娘と二人では手間取るどころか危ないと思ったのだった。
ところがそんな悠長なことを言っている場合ではなかった。
午後6時過ぎまで連続で受けた2つの資格更新のためのセミナーを終えたところでトラ娘からメールが届いた。
「ともちゃんが吐いちゃった」
腎不全の子は嘔吐しやすいから気をつけるようにとお医者さんから言われていた。食べる量は少なくても飛んだり跳ねたりしているし、食欲もある。オシッコとウンチもともちゃんペースでちゃんとしてる。見ている限りご機嫌もよさそうだったから、油断したかな。
職場に戻り荷物をまとめて急いで帰宅。病院へ向かった。トラ娘が帰宅するしばらく前にも一度吐いたらしかった。
病院ではトラ娘が吐いた時の状況を説明し、ここ2日ほどの全体的な様子を私から伝えると、先生が言った。
「腎不全で吐いたというより、胃腸の方が原因みたいですね。血色もいいし、体重も変わらず。とりあえず注射で様子を見ましょう」
丁寧な説明の後、点滴と2本の注射を打ってもらって帰宅した。病院では震えていたけれど、さっき私が帰宅したときも小走りで出迎えてくれたし、病院から帰った後もキャリーバッグから飛び出し、即ごはんをねだりに小走りで私の後をついてくる。しんどそうだったりどこかが悪そうだったりする感じではない。
しかし、問題はごはんだ。"腎臓療養食"のカリカリをお湯でふやかして食べさせるようにと言われたのだけれど、一口も食べない。仕方なく、ウェットタイプの方を細かくすりつぶしてお湯でゆるめて出してみたけれど、ダメ。
「お母ちゃん、こんなのじゃなくて美味しいのがいい」「いつもくれるやつは?」「あれはないの?」
可愛く迫ってみたり、泣き落とし路線でまとわりついたり、置物状態になってみたり...。あらゆる方法で美味しいごはんをゲットしようとするともちゃんだけど、ダメなのよ。だって吐いちゃったんだもの。
そして言われちゃったんだもの。腎不全の子にとってタンパク質はよくないって。自分の体の中の筋肉のタンパク質でさえ毒になるって。落ちた体重ももう戻らないかも知れないって。やっぱり療養食をきっちり食べないとだめなんだよ、ともちゃん。
諦めたともちゃんは、ふやかしたやつでなく、普通のドライフードを何度かほんの数粒ずつ食べた。そしてホカペの上で眠り始めた。
ともちゃんのごはんを用意するたびに考える。
食べたいごはんを食べて寿命が短くなることと、食べたいものを我慢したり食べたくないご飯で最低限の空腹をしのいで長生きするのと、猫にとってどちらが幸せなのだろう?
ともちゃんにとってのQOL(生活の質)を考えた時、どちらを優先するべきなのだろう?
「この子たちが話せたらなって本当に思いますよね」。先生も言っていたけれど、ともちゃんにとっての幸せは私たち家族が推し量るしかない。そしてその選択に責任を持たなくてはならない。しかし恐ろしいことに、どんなに一生懸命考えても、ともちゃんの望みと違っている可能性だってあるのだ。
でもね、お母ちゃんはともちゃんに元気でいて欲しい。体がしんどいなとかだるいなとか感じながら暮らして欲しくない。美味しいご飯を我慢させてしまうことになっても、できるだけ元気で長く一緒に暮らしたい。点滴して薬を飲んで頑張っているご褒美に少しくらいは普通のウェット食を食べてもいいかなって思ったけど、やっぱり我慢しなくちゃいけないかもね。
☆ ☆ ☆
考えてみれば、ともちゃんが腎不全による体調不良に陥ってからちょうど1カ月が過ぎた。
ともちゃんが嘔吐したのもショックだったけれど、一番辛かったのが、元気だった頃の元の体重には戻れないだろうと言われたことだった。
頑張って点滴と薬を続け、食事にも気をつけていけば、腎機能は落ちたといっても元のように元気になれるかも知れない。左の腎臓が萎縮してしまっていても、右の腎臓が頑張ってくれるんじゃないかな。数日前の血液検査の結果が良かったので、そんなことを考えていたのだ。甘かった。
ともちゃんは腎不全でなのだ。厳しい現実を突きつけられた思いだった。しっかり状況を把握している気でいたけど、現実をきちんと受け止められていなかった。
出張先の人間チャシマン(夫)が電話で言った。「いいじゃない、痩せていてもともちゃんがそれなりに元気なら」
そうだ。私たちは腎不全というともちゃんの病気を受け入れ、それを日常として暮らしていくことにしたのだ。100%な健康状態じゃなくても幸せに暮らすことはできるはずだ。問題が起きたら、その都度それに対応していけばいいだけだ。くよくよするのはやめよう。波乗りを楽しむって心境に至るには時間がかかるかも知れないけれど、私たちなりに3人と2匹の家族の生活を送っていこう。
それにしても、エリザベス・キューブラー・ロスによる「死の受容の5段階」とか、病気や障害を受け入れるとか、臨床現場での患者さんの面談とか色々勉強してきたくせに、自分が家族(ともちゃん)の病気に対して「否認」状態にあったとは...。でも、それだけ家族の病気を受け入れるということは難しく高度なことなのだろう。頭で考えたり口で言っているだけでは、やっぱりダメなんだな。
大切なことをともちゃんに教えてもらったし、いくつになっても発見はあるものだと実感する。ともちゃんの病気に関して友人とやり取りするなかで、気づいたり発見することも沢山あったし、何よりも心配して声をかけてくれる友人たちの存在が、どれだけ私を支えてくれているだろう。なんてありがたく幸せなことか。
不完全でもかっこ悪くても、とにかく生きよう。まずは今日1日。
(1月25日00:53)